福岡の彫刻家 冨永朝堂の生涯

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太宰府に縁のある『冨永朝堂』について知りたくて、以下の本を読みました。

『彫心澄明―冨永朝堂聞書』西日本新聞社 谷口 治達著

谷口 治達氏は元九州造形短大学長で田川市美術館館長を務めた方です。

個人的にはかなり眼から鱗の内容で、読んで読んで良かったです。

この本は『聞書』というくらいなので、直接、冨永朝堂さんから伝え聞いたことを、もとに書かれているので、ほとんど自伝のようなものと言ってもいいかもしれません。

冨永朝堂の生涯

冨永朝堂さんは明治30年に博多・下赤間町に生まれました。現在の冷泉町で、櫛田神社や聖福寺の近くです。

朝堂の母の従姉の夫が軍人の『尾野実信』だったそうです。

朝堂は絵が好きで、尋常小学校の時に祇園生まれの上田鉄耕(父は上田桂圃)に南画を習っていたが、家業が家具作りだったため、父親に画家志望を禁じられて、彫刻家を目指すことになります。

ちなみに、小早川清は上田鉄耕塾の同門で、親友でありライバルであったと話しています。

彫刻家への志も父親に反対されたが、家出して京都へ行ったが東京で修行する方が良いということで、取り持ちをしてくれた、橘智定(筑前琵琶の演奏家)の親類だった『山崎朝雲』を紹介。

すごい運命ですね・・・。ちなみに、橘智定氏の支持と庇護をしたのが、金子堅太郎です。

山崎朝雲の祖先は、黒田長政が福岡舞鶴城築城の際に、必要な瓦を焼かせるために故郷の播州から呼び寄せた『正木宗七』だそうです。宗七焼は博多人形の源流のひとつとも言われています。

しかし、本当にいろんなところで、人が繋がっていることがわかります。

(端折り過ぎですが・・・)山崎朝雲に弟子入りして卒業後、帝展初入選。

それでも、家計は大変で結婚後、文字通り「米も買えない」くらいに困った時期もあったようです。それでも苦しい時に、九大の先生などが作品を購入してくれて助かったと話しています。

戦時中、東京のアトリエの近所に焼夷弾などが落ち、危険を感じた朝堂は、太宰府に疎開。疎開先は、博多聖福寺の戎応老師が太宰府の観世音寺を薦めたそうです。

また、唐津の中里太郎右衛門も「唐津に来なさい」と薦めたそうです。

こうして朝堂は太宰府に住みはじめ、坂本繁二郎などとも交流。

また、のち世界で活躍する彫刻家、豊福知徳(とよふくとものり)が朝堂に入門。知徳は戒壇院に住み込み下宿していたそうです。

また、冨永朝堂は観世音寺の九大教授の竹岡勝也氏などと復興にも尽力。仏像などの文化財はこうして守られてきたのですね。

その他、俳人である、高浜虚子像を制作。また俳人の小原菁々子さんに頼まれて、花鳥山仏心寺の河野静雲さんの像も制作されたそうです。

本を読んだ感想

かなり端折って書きましたが、何より冨永朝堂さんの人柄の良さが本を読んでも伝わってきて、氏のことが、好きになりました。

また、冨永朝堂の周辺の人物が大変著名な方ばかりで、驚かされました。

(追記)太宰府天満宮の延寿王院前の御神牛は冨永朝堂さんが原型制作したものです。

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筆者:40代男 一児の父

居住:福岡県

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