大宰府政庁跡の太宰府址碑と書家・日下部鳴鶴

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2015-08-26 17.09.49

だだっ広い大宰府政庁跡の奥の方(正殿跡)には3つの石碑があります。

石碑の後方には、太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる四王寺山も見えます。

白村江の戦いの翌年に大城山の山頂に古代山城である大野城が設置されました。

左から、『太宰府碑』、『都督府古址』『太宰府址碑』』の三碑です。
普通はあまり気にも留めないと思いますが、これをじっ~と観ると何やら文字が書かれているのがわかります。

2015-08-26 17.10.21

いちばん左の碑。

上の方に「太宰府址碑」と書かれています。

2015-08-26 17.10.50

日下部東作書と書かれているのがうっすら見えるかと思います。

日下部東作というのは本名で、世には日下部鳴鶴としてよく知られています。

この碑の書は『日下部鳴鶴(くさかべめいかく)』という方が書かれたものです。(鳩山翠豊・刻)

明治の三筆と呼ばれたほどの書の腕前を持った有名な書家です。
「日本近代書道の父」と呼ばれることもある方です。

中国の楊守敬に影響を受け、中国で、兪曲園・呉大澂・楊見山・呉昌碩らとも交流しました。

門下に比田井天来など有名な書家がいます。

碑刻』という本によると、日下部鳴鶴は字彫りに関しても大変厳しい人で、必ず彫り上がった碑を先生に見せて許可がでなければ建てることができなかったとあります。

日下部鳴鶴は晩年に至るまで、臨書を怠らなかった(手本に忠実であった)そうで、上記のことも頷けます。

この碑を見ても、大宰府政庁跡を後世に残すため、昔から多くの方が尽力してあったことが伺えます。

ちなみに、大宰府政庁跡がいつも綺麗なのも、多くの方の尽力の賜物ですね。

亀井南冥の碑は、江戸期に建てられる予定だったようですが、実際に建てられたのは明治になってからだったようです。

この地の歴史を忘れないために、建てられた石碑です。

大宰府政庁跡付近の見どころ

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筆者:40代男 一児の父

居住:福岡県

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コメント

  1. ちとせ より:

    初めまして。コメント失礼いたします。
    福岡県にある在住している者です。こちらの記事に大変興味を抱きました。太宰府趾碑について知るためにも、本の『碑刻』についてもっと詳しく知りたいです。詳しくお伺いしたいので、よろしければメールしていただけないでしょうか。お時間ありましたら、よろしくお願いいたします。

    • mogokorodo より:

      コメントありがとうございました。
      メール致しましたので、万が一届かない場合は、こちらにお問い合わせください。