碑刻とは

Facebook にシェア
Pocket
LINEで送る

今日は『碑刻』について。

意味は読んで字のごとく、『石面に文字や絵を刻むこと』というような意味です。

みなさんの地元でも、近くで石碑を見ることがあるかもしれないですが、その石碑のことです。

碑刻の本を読んで、ヨメに『碑刻』って奥が深いんだな~と話したら、「ふ~ん。興味ない」と言われました・・・ 。まあ、仕方ですね。それが普通のリアクションだと思います。

興味のない方や、ただ、碑刻の意味について知るために、このページに辿り着いた方も、是非ご一読ください。

まあ、正直なところ、石碑について日常で友達と語ることもないですし、私も正直、今まで大して気にも留めて来なかったんですが、地元、大宰府の史跡を巡っていくうちに、石碑について少し学んでみようかなと思い以下の本を読みました。

そもそも「石碑」は何かを記念して文字や絵を彫ることなので、石碑が鎮座している場所は、ある意味その地域で重要な事柄があった場所と見ることもできますね。

例えば、私の住むの太宰府でしたら、大宰府政庁跡に石碑(大宰府政庁跡の太宰府址碑)が建っているのですが、こちらは福岡の儒者の亀井南冥さんと、日下部鳴鶴の書が刻まれています。昔、この地に大宰府政庁があったという歴史を忘れないために、建てられた石碑です。

普段あまり目につかないですが、意識すると、実は太宰府には沢山そのような石碑・歌碑があります。

そういう意味合いが石碑にあるのですが、残念ながら現代日本では、造る需要もそう多くはないようで、採算性などを考えたら機械彫りになってしまうのは仕方のないことですね。

石碑造りの一番最盛期だったのが、明治時代で、この時代には特に、関東と関西の工人に優れた手彫りの工人がいたようです。

明治天皇の勅令で、木戸孝允と大久保利通の神道碑を建てることになり、それが流行の始まりとなり、明治11年~15年ぐらいが需要のピークだったようです。

内国博覧会や中国清代の学者、楊守敬の碑帖研究もブームに拍車をかけました。

字彫り職人の衰退の原因は、ひとつは日清日露戦争で有能な工人が不足したことと、昭和時代になると、職人の社会的地位が低く技にプライドを持てなかったこととこの本では言っています。

この本の内容はすごく専門的なので、一般的ではないですが、個人的にはかなり勉強になりました。石碑に対する見方がまた少し変わりました。碑刻というのは大変奥が深く、彫り方もさることながら、書家さんと工人さんとの関係なども興味深かったです。

あまり石碑の職人さんに焦点が当たることがないですが、今後はその点なども見ながら、碑文を見てみようと思いました。

石碑造りをしている職人の方や、拓本に従事されている方、書道家の方などが読むとかなり有用なんじゃないかと思います。

何より著者が明治時代にその仕事の一端を担っていた方なので、明治時代の職人の考えを知ることができるという点でも良い本だと思います。

(追記)ちなみに、本によると、大宰府政庁跡の石碑の書の作者でもある日下部鳴鶴さんは、大変厳しい人で、彫り上がった碑を自ら見て許可がでなければ、建てることができなかったそうです。それほど仕事に厳しい人だったようです。

もう一度私も政庁跡にある石碑をじっくり見に行こうと思います。

Facebook にシェア
Pocket
LINEで送る

にちこれブログについて

にちこれブログを書いている人

筆者:40代男 一児の父

居住:福岡県

スポンサーリンク







フォローする

スポンサーリンク