福岡県の歴史を深掘りするために、県下の伝統工芸品を調べて、伝統工芸品一覧を作ってみました。
すべてを網羅しきれていませんが、ご参考にどうぞ。
目次
福岡の伝統工芸いろいろ
博多織(はかたおり)
絹を素材とした織物。
博多は中国大陸との交流が深く中国(宋)からの織布技術が渡来し、それが定着したものが博多織の始まりと考えられています。
起源には諸説があり、鎌倉時代に博多の商人・満田弥三右衛門(みつだやさうえもん)が承天寺の臨済宗の僧・聖一国師(弁円円爾)とともに渡宋し、織布技術を持ち帰ったことがひとつの説のようです。
貝原益軒の『筑前日続風土記』や『博多織考』ではこれを否定しています。
1600年に黒田長政が入国し、黒田藩の特産品として育成されました。
小川善三郎(人間国宝)の献上博多織技法は重要無形文化財に認定されています。
籃胎漆器(らんたいしっき)
薄い竹ひごを編んで作ったかごに、漆や合成塗料を塗って固め、磨いては塗り固めたもの。
元久留米藩の鞘塗り(さやぬり)師川崎峰次郎と、久留米山本町に住む竹細工師、近藤幸七が互いの技術を寄せ合って作った工芸品。
今でも福岡では籃胎漆器のCMなどでお馴染みです。
久留米絣(くるめがすり)
久留米絣は、木綿を原料としたもので、経糸(たていと)、緯糸(よこいと)をそれぞれかすり部分だけ糸でくくり、釜で染め製織するものです。
重要無形文化財に指定。
この技法は、寛永の末ごろに井上伝により考案されました。
井上伝(いのうえでん)
1788年12月30日-1869 4月26日 (天明8年~明治2年)
久留米絣の創始者。
からくり人形で有名な、からくり儀右衛門と呼ばれた田中久重も井上伝に発明の手助けをしたようです。
井上伝のお墓は臨済宗・徳雲寺にあります。
その弟子たちが開発に力を入れ、技術革新が進みました。
西南戦争を終えた軍人が久留米を通る際に持ち帰り、全国に広めたと言われています。
明治以降は久留米市を中心として筑後、八女、三井、浮羽、三瀦、山門周辺で主として農家の副業として織られていたようです。
大正期から昭和初期に最盛期を迎えますが、戦後、生活様式の変化で需要は減少しました。
広川下駄
八女郡広川町は大分県日田と並び、かつては九州の代表的な下駄の産地で、明治中期頃に桐材を利用して製造が開始され、戦前に全盛期を迎え、のちに終戦直後の材料不足やその後の生活様式の変化に伴い衰退していきました。
筑後和傘
江戸時代に久留米藩内の武士や神官の内職として始められ、その後、筑後地方一円で広く製造されるようになったようです。
筑後和紙や竹、シブなど原材料が豊富だったため筑後地方では随分傘造りが盛んで、特に昭和初期には業者が1000軒ほどあったようです。
しかし戦後は洋傘に押されて徐々に哀退していきました。
八女福島仏壇
江戸後期から八女市で生産されている仏壇。
1977年(昭和52)通産大臣指定伝統工芸品に指定されました。
1821年(文政4)に桧物師・遠渡三作(とわたりさんさく)が九州で初めて、荘厳華麗な仏殿楼閣型仏壇を作り出したようです。
八女産のヒノキやスギの良質材を生かして発展した。ほとんどを手作りする伝統技法で、細やかな細工、漆塗りの仕上げ、金ぱくを張りつめた豪華さが特徴です。
今でも八女福島周辺では仏壇屋が多数軒を連ねています。
久留米から移住した洋画家・坂本繁二郎は、この福島町周辺の自然と親しみながら画題を求めたと言います。
筑後和紙
越前出身の日蓮僧日源上人が、廃寺になっていた筑後・溝口村の福王寺にきて再興するとともに、矢部川の水質が紙漉きに適すると判断して、紙漉きを始め、溝口紙として発展したと言われています。
筑後の立花氏、田中氏、有馬氏の3領主ともに溝口紙を御用紙に指定し、製紙道具一式を貸し、田畑や扶持を与えてこれを保護したようです。
八女石灯籠(やめいしどうろう)
古くから八女には石工が存在し、石仏や石橋、石塔などを造ってきました。
石灯籠産業は大正時代に始まり、その素材は、阿蘇山の凝灰岩を使用したものが多いようです。
博多張子
博多張子は江戸中期頃、上方からきた人形師が始めたといわれています。
張子は木型に和紙を何枚も重ねばりし、乾燥したのち、側面に切り込みを入れて木型を
抜き、その切り込みを合わせて上からさらに紙ばりし、それに胡粉を塗って絵の具で彩色したもの。
博多鋏
以下を参照
博多チャンポン
1832年(天保3)に福岡・名島のびいどろ屋卯平(びいどろや・うへい)というガラス職人が当時、長崎から入っていた中国製のガラスの玩具チャンポンを模して製造して、筥崎八幡宮の放生会で売り出し爆発的な人気を呼んだのが始まりとされています。
孫次凧(まごじだこ)
大正時代に、北九州の戸畑の竹内孫次が作り始めた凧。
彦山ガラガラ
英彦山土産の土鈴。
水田の水口付近の土中に埋めておくと英彦山権現の神霊の加護によって水害干害からのがれ豊作になるという信仰からきたもので、農民たちはこれを求め、農家に配ったと言われています。
博多人形
博多には人形の系譜が3つあると言われています。
京都から招かれ、博多祗園山笠の人形を作ったと伝える木偶師(でくし)小堀善左衛門正直に始まる細工人形。
1601年(慶長6)福岡城築城の折、瓦用の粘上で人形を作って藩主長政に献上したといわれる瓦師正木宗七を始祖とする宗七焼。
文政年間(1818年~30年)中ノ子吉兵衛の創案した素焼きによる土俗玩具人形。
これらが互いに影響し合って博多人形が生まれたとされています。
津屋崎人形
博多人形の祖形である博多土人形と同系の上人形で、宗像郡津屋崎町に製造元がある。
江戸後期の明和~安永年間(1764年~81年)に始められたとされ、最初は火鉢や瓷などを作っていたが、人形や動物類を製作するようになった。
素焼きの型で成形した粘土人形を焼き、彩色したもの。
赤坂人形
筑後市赤坂で作られてきた土人形で「ててっぽっぽ」として知られる笛類を中心とした玩具。素朴な焼きと色彩で有名でした。
約200年ほど前、筑後市水田で土人形が作られていたものを参考にして、民窯赤坂焼の職人たちが始めたと言われています。
マルティグラス
中島広吉が1919年(大正8)に福岡県植木町(直方市)に自営で創業。
パリ万国博覧会をはじめ、日展、伝統工芸展などで数多く受賞。
福岡県知事指定特産工芸品に指定されています。
その他
まだまだ沢山あります。
筥崎曲物、福島提灯、博多独楽、博多あねさま、博多土鈴、キジ車(山門郡瀬高町)、木ウソ(太宰府)、上野焼、小石原焼、高取焼など。
以上、福岡の伝統工芸品一覧でした。
以後加筆・修正していきます。
参考文献)主に福岡県百科事典