太宰府の絵師たち一覧
江戸・明治・大正・昭和時代に活躍した、太宰府の絵師たちの紹介をしたいと思います。
太宰府という土地が育んだ絵師たちの生涯などを、もう一度見直すきっかけとなれば幸いです。
吉嗣拝山
弘化3年(1846)-大正4年(1915)
吉嗣梅仙の子で、父の豪放な生活のため生活は苦しく、13歳で太宰府の六度寺に入ります。
この時に、このころ六度寺の僧だった、のちの書家の宮小路浩潮に書を習ったと言われています。
その後、本田竹堂を師として岩潭書塾に入ります。
19歳で現・大分の日田咸宜園(かんぎえん)に入門。
3年後太宰府に戻るが、三条実美らのいわゆる五卿落ちで騒然としていた太宰府を離れ、京都に上る。
京都では北九州芦屋出身の中西耕石に絵を習う。
明治元年には耕石の下を去り、備中倉敷県属になる。
翌年には東京で役人生活を送るが、退職し大学昇平校に入学します。
明治7年に、神田橋内で大風雨の中歩いている時に、家屋の倒壊の現場に居合わせ重症を負い、右腕を切断してしまいます。
その後、画業と漢詩に一生を捧げる覚悟をします。
その時、失った右腕の骨を筆にしています。
左手で描いたため、左手拝山としてもよく知られています。
その筆は、太宰府ふれあい文化センターに展示されていました。
また、中国(楊州・蘇州など)にも遊学しました。
吉嗣梅仙
文化14年(1817)- 明治29年(1896)
拝山の父。名は寛。別に弄春園主人。雅号は彩霞・梅仙。
斎藤秋圃に師事。
性格は豪放磊落で、生活に窮していたようです。
門人に中垣楳山、平島古僊などがいます。
萱島鶴栖
文政10年(1827)~明治11年(1878)
秋月藩渡辺左右の子。太宰府で萱島家の養子となる。
通称は謙助。斎藤秋圃、桑原鳳井、石丸春牛に画を学ぶ。
19歳、京都で前田暢堂に師事。
萱島秀山
安政5年(1858)~昭和13年(1938)
萱島鶴栖の子。はじめ鶴仙と号した。
本田竹堂に画を学ぶ。
明治2年、近藤登漢学私塾に入学。
明治8年から石丸仙舟に画を学ぶ。
小曽根乾堂、牛島柳橋、平野五岳、豊島海城、荒木寛畝などにも師事しました。
斎藤秋圃
明和5年(1769)~安政6年(1859)
京都で生まれました。絵を円山応挙に学ぶ。
九州に向かう途中に安芸の宮島に3年滞在し、鹿の描写に没頭。
『鹿の秋圃』と呼ばれました。
長崎で中国の江稼圃に学ぶ。
幕末期に外国船に備え、長崎警備にあたっていた秋月の黒田長舒に認められて秋月藩御用絵師になる。
太宰府神社祠官別当、菅原信覚の姉と結婚したため、太宰府に移住。
その後画業に勤しむ。吉嗣梅仙、萱島鶴栖などを育てた。
聖福寺の仙厓さんとの交流もあったようです。
吉嗣鼓山
吉嗣拝山の子。修猷館卒業。
皇太子殿下巡幸の際など多数揮毫する。